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湯沢スキー100年物語 新潟スキー発祥100周年

明治44年レルヒ氏がスキーを紹介

2011年は、オーストリアの軍人レルヒ氏が日本にスキーを紹介してからちょうど100年目にあたります。レルヒ氏は、明治44年(1911年)1月に陸軍高田歩兵連隊の青年将校に上越市の金谷山でスキーの指導を行いました。これが日本にスキーが伝わった最初です。

湯沢には、その2年後の大正2年(1913年)に伝わりました。陸軍高田歩兵連隊の士官が行った「試演」に湯沢から本間栄太郎と田村貞次の2名が参加し、スキーの技術を伝えたそうです。当初は、軍事用や郵便物の運搬、電話線の保守作業など実用的利用が主でしたが、しだいに、地元の大工にスキーを作ってもらって遊びとしても滑る人が現れました。
当時のスキー 素材には、朴や栗・胡桃などの木が使われ、松脂(まつやに)を煮たてた中に入れて、柔らかくして反りを付けたそうです。
数年後には、スキーの製造販売業者も誕生します。当時のスキー1台の値段は、現在の貨幣価値で輸入品が10~15万円、国産品で5万円程度でした。

大正4年に湯沢スキー場が誕生

早くも大正4年(1915年)には、湯沢スキー場(現在の湯沢高原スキー場・布場ゲレンデ)が開設され、スキー愛好者たちによる「偉スキー猛(エスキモー)団」が結成され、普及活動も行われるようになりました。しばらくすると湯沢高原に続き、
岩原スキー場が大正12年(1923年)に、中里スキー場が昭和6年(1931年)に開設されました。
学校教育としてのスキーの歴史も古く、大正11年(1922年)には、湯沢小学校に50台のスキーが納入され、冬の間の体育授業に用いられるようになりました。現在の湯沢町内の小・中学校のスキー授業は約90年の歴史があるということです。
湯沢の先達たちは、スキーを村起こしの切り札と考えていたようです。積極的にスキーの講習会や競技会を誘致して、多くの人を集め、そこで優秀な成績を収めて「スキーの湯沢」をアピールしようとしました。また、上越線の全線開通をにらみ、行政もスキー倶楽部やスキー場整備事業への補助金支出といったスキー振興事業を積極的に行っていきました。

温泉とスキーの街が誕生

昭和6年(1931年)に上越線が全線開通すると湯沢は大きく変貌します。それまで湯治場として利用されていた湯沢温泉は、スキーが楽しめる温泉観光地として、多くの人が訪れるようになります。湯治場は温泉場へ変遷し、芸妓が歩く街へとなっていったのです。このころの湯沢を舞台に川端康成の「小説・雪國」は描かれています。
戦後、特に昭和30年台半ばから40年代は、高度経済成長時期と重なり、年末年始や冬の週末は、多くのスキー客で溢れました。民宿営業も始まりましたが、民宿に収容できない人は、一般の民家に泊ってもらうほどの盛況ぶりでした。
湯沢高原ロープウェイは3時間待ち、布場スキー場のリフトもゲレンデの半ばまでの行列があったことが、当時小学生の高学年から中学生だった筆者の記憶にあります。

スノーリゾート湯沢へ

スキーは多くの経済的恩恵をこの町にもたらしました。劇的な変化は、民宿業の成り立ちと冬期の出稼ぎが無くなったことだと思います。
昭和57年(1982年)上越新幹線が開業、昭和60年(1985年)には関越自動車道が全線開通。都心から数時間で行けるリゾートとして、湯沢町にはリゾートマンションが林立します。冬の関越道は大変な交通渋滞が発生し、「東京都湯沢町」と揶揄されるほどの人気を集めました。

こうして改めて湯沢のスキーの歴史を見てくると、スキー黎明期の先達たちのスキーへの情熱が伝わってくるような気がします。筆者も自分のスキーを持ってスキー場を訪れ、スキーを楽しんでいます。スキーの楽しさをどのように人に伝えるか、今の湯沢の人には先達たちが持ったスキーへの情熱に対してまだ情熱が足りないのかもしれません。
いずれにせよ、ここ100年の湯沢の歴史は、スキーの歴史そのものだった気がします。今後の100年がどうなるか、湯沢町の大きな宿題です。
(文:NPO法人 ゆ 林 敏幸)