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2020年前期特別展「『雪国』と湯沢」※終了しました。

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【開催期間】令和2年2月27日(木)から9月15日(火)まで ※終了しました。

<特別展 開催について>
八千草 薫さんが亡くなった、とニュースを聞いたのは昨年(2019年)10月28日(死亡は24日)。昭和32年(1957年)公開の映画『雪国』で葉子を演じた八千草さんは、88才になっていました。
新聞社等から「誰か当時(昭和30年頃)の八千草さんに会った人が湯沢にいないか」と問い合わせを受け、探しましたが、なかなか見つからないのです。湯沢の昔を実体験として語ることのできる人が、確実に少なくなっていることに焦りを覚えました。
ようやく八千草さんと同じ生まれ年の田村正夫さんが「八千草さんの写真を持っている」と分かり、古いアルバムを見せてくれました。小さな写真ですが、そこに湯沢と田村さんの歴史を感じました。みなさまにもぜひご覧いただけたらと、今回の特別展を開催しました。 (展示担当スタッフ)

※コロナウィルスの感染影響により、外出を控えている方がたくさんいらっしゃると思います。いつもはご来館の上、ゆっくりご覧いただきたい展示でございますが、今回は、ご自宅でもご覧いただけたらと思いまして、ホームページで展示内容の一部を公開いたします。なお、写真については掲載しませんので、ご了承願います。

 

川端康成(1899~1972)は、『雪国』は湯沢か、ということについて、
『雪国』のあとがきで、下記のように書いています。一部、抜粋しました。

「雪国」の場所やモデルを芝居の参考に見ておきたいからという花柳氏(※)の手紙にも、もちろん私は地名を答えなかった。小説だけを見てほしかった。
・・・創元社版『雪国』(昭和23年発行)あとがき
・・・※花柳章太郎(1894~1965)女形役者。「雪国」を上演

「雪国」の場所は越後の湯沢温泉である。私は小説にあまり地名を用いない流儀だった。地名は作者ならびに読者の自由をしばるように思えるからである。
・・・岩波書店版『雪国』(昭和27年発行)あとがき

 

映画『雪国』について

1957年(昭和32年)に、配給は東宝で封切られた。出演は、島村役の池辺良、駒子役の岸恵子、葉子役の八千草薫など。湯沢でロケが行われた。

 

『雪国』のロケに出会った町民たち

湯沢生まれ湯沢育ちの湯沢住民、田村正夫さんは、昭和6年(1931年)生まれ。田村家は昭和29年(1954年)に幅12メートルの西山道ができると、林を売って「アルペン食堂」を建て、翌年のシーズンから営業した。当初は「山彦食堂」にしようと家族で決まりかけたが、最終的に正夫さんの案で決まった。当時、カタカナの店の名前は目新しかった。従業員は家族を含めて5人であった。女性は通いで、男性は泊まり込んで働いた。父と弟は本宅にいた。

食堂を営業し始めてまもなくの頃、雪国のロケがあったと思う。ロケの下見で、池辺良や岸恵子が(自宅近くの)楽町(らくちょう)辺りを歩いているのを見た。くっついてなんて行かなかったすけ、見かけただけだった。岸が家に寄ってお茶を飲んだりして休んでいったと、後で姉から聞いた。
食堂の前で、池辺と八千草薫が通ったのを見かけて、カメラを持って行った。何も言わないで撮った。撮られてたって普通にしていたよ。八千草は体格がそんなに大きくなかったけど顔立ちが良かった。さすが女優になる人と思った。
(田村正夫さん)

布場スキー場の食堂「新雪」で、7人が2列に並んで撮影された写真がある。前列中央に八千草薫。箸とお椀を持って「いただきます」という様子で笑顔。和服姿である。田村さんに、写真について聞くと「両脇は関係者じゃないかな。後列の右から2番目が店主の大平さんで、横が奥さん」とのことであった。

昭和32年(1957)に『雪国』撮影のためロケの調査があり、高橋藤雄さん(昭和7年・1932年生まれ)が下見の写真を撮った。このとき、写真の専門家が来て仲良くなり、その縁で、本番の撮影時にはスチールカメラマンの脇で撮ることができた。
高橋さんは、楽町の写真店(写真のタカハシ)の二代目で、東京写真大学を昭和28年(1953)に卒業。昭和25年(1950)頃からスキー場の写真を撮り始めた。ゲレンデで客を撮り百円から百五十円で販売。夜に現像して郵送した。
・・・「湯沢町史・双書8 湯沢町の民俗2 人の越後』より抜粋

「島村ロッヂ」の島村武夫さん(82)は『雪国』ロケのとき高校3年生で、全国インターハイ・国体・全日本の大きな大会に出場した年だった。家は湯元で旅館(湯沢ホテル)をしていたが、昭和17年ころ廃業して、戦後は布場で島村スキー学校を経営。父親の勝彦さんは、湯沢スキーの先達の一人である。武夫さんは父親から言われ、岸恵子らにスキーを教えた。「教えるったって道具が悪すぎてね。スキーを履かせるだけでも一苦労で、とても斜面をすべらせるまではいかなかった。そりゃあ、きれいだったよ。これが人間かなと思うくらいだったね」と話した。

 

布場スキー場について

布場スキー場は、大布場沢の扇状地。大正時代(1912~25)から利用されてきた。傾斜面の山の方に向かう作業道(幅1.8メートル)が何本もあり、夏には下宿(しもしゅく)の人々が利用した。大豆や大根などの野菜を作付けした段々畑や桑畑があり、滑るところの段を削ってスキー場らしくした。昭和6年(1931)に上越線の清水トンネルが開通してから冬期間は売店(食堂)が作られるようになった。 昭和57年(1982)上越新幹線が売店の位置を通ることになり、少し山側に移動して新築もしくは廃業した。

 

下宿(しもしゅく)について

三国街道の湯沢宿は、三国峠寄りが「上宿(かみしゅく)」、塩沢寄りが「下宿(しもしゅく)」である。高半旅館がある「湯元」は小高い丘の上にあり、昭和初期、民家は数件しか無かった。湯元から近い下宿で、雪国の撮影は多く行われた。下宿から湯元までの坂道を「湯道(ゆみち)」といい、下からあがるときは「湯坂(ゆざか)」と言った。湯元の温泉に浸かるときや畑仕事で布場へ行くときなど利用した。「そこいらは細い道しかなくって、人ひとり鍬かついで荷物を背負って通れるくらいだった。昔は山道みたいだったけど、今は道が広くなった。いちばん変わったがは、新幹線ができてから。全然違う風景になった」と田村さんは話す。 ちなみに地元の人は「湯沢」を「よざわ」と発音し、「よ」にアクセントを置く。

たいていの家の屋根は細かい板で葺(ふ)いて、上に石が置き並べてある。それらの円い石は日の当たる半面だけ雪の中に黒い肌を見せているが、その色は湿ったというよりも永の風雪にさらされた黒ずみのようである。そして家々はまたその石の感じに似た姿で、低い屋並みが北国らしくじっと地に伏したようであった。
・・・『雪国』(新潮文庫)より抜粋

大名が通った頃からであろうと思われる、古風な作りの家が多い。廂(ひさし)が深い。二階の窓障子は高さ一尺ぐらいしかなくて細長い。軒端(のきば)に萱(かや)の簾(すだれ)を垂れている。
・・・『雪国』(新潮文庫)より抜粋

 

映画での火事のシーンについて

火事の場面で燃やす家を河原の方に作った。昔、その辺には民家が無かった。消防団第1分団第3部というのが家の方で、部長から「何人か出てほしい」と言われて行った。下っ端(したっぱ)だんが「ここで見てろ」と言われた場所に居た。河原の方じゃなくて、湯元(高半辺り)だった。待機してろということだったんだろう。
(田村正夫さん)

河村勝さん(昭和13年・1938年生まれ)は、高校一年生のとき、エキストラのアルバイトに応募した。火事の撮影には、できるだけ当時の服装をして出てくるようにいわれたので、爺チャンからもらった綿入半纏(はんてん)を着て、顔も手拭(てぬぐい)でホウコッカブリをして出演した。火事のセットは一回限りであった。また、当時は自然の雪が降るのを待って撮影したので、ロケも長期になった。
・・・「湯沢町史・双書8 湯沢町の民俗2 人の越後』より抜粋

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