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雪国館ってどんなところ?湯沢町の歴史と暮らしにふれるひととき 雪国館通信Vol. 1

2026.05.22

川端康成『雪国』の舞台・湯沢町。歴史民俗資料館「雪国館」を通して、土地の記憶や文化、人々の暮らし、そして時代とともに変わる雪国の姿をたどる記事を、雪国館通信としてお届けしていきます。

雪国館は湯沢町にとってどんな存在?

 

雪国 湯沢町

湯沢町は新潟県の南端、群馬県との県境にあります。川端康成の小説『雪国』の舞台となった土地であり、冒頭の「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」で知られる、あの「雪国」です。人口は約8,300人(2025年時点)。面積は約357平方キロメートルで、その94%を山林が占めています。

わずかな平地を縫うように三国街道が通り、湯沢宿、三俣宿、二居宿、浅貝宿という四つもの宿場が置かれていました。現在の湯沢町となったのは昭和30年(1955年)。湯沢村、神立村、土樽村、三俣村、三国村が合併して誕生しました。

ですから、一口に「湯沢」と言っても、たとえば湯沢地区と三国地区とでは文化や気風が異なります。お年寄りは「湯沢は湯沢、三国は三国だこっつお」と言います。余談ですが、「ゆざわ」と言うとき、「よ」にアクセントを置いて「よざわ」と発音します。

今回ご紹介する湯沢町歴史民俗資料館「雪国館」も、お年寄りは正式名称では呼ばず、「資料館」と呼びます。館内には、湯沢町各地の暮らしや歴史に関わる、さまざまな資料が展示されています。

湯沢町歴史民俗資料館「雪国館」

開館したのは昭和58年(1983年)。当初は、雪国の生活用具などを展示する「湯沢町歴史民俗資料館」でした。

平成4年(1992年)には、『雪国』の芸者・駒子のモデルとなった松栄(まつえ)が暮らしていた置屋が取り壊され、その部屋の一部を移築・再現して「駒子の部屋」が設けられました。

平成11年(1999年)に松栄が亡くなると、翌年には「駒子展」を開催。その際に愛称を公募し、「雪国館」と名付けられました。

平成14年(2002年)には「『雪国』日本画の世界展」が開催され、現在ギャラリーに展示されている13点が初めて披露されました。さらに2年後、高山辰雄による《雪國の月》が完成し、現在の14点がそろいました。

作品はすべて湯沢町が購入・収蔵しています。

 

展示内容のご紹介(その1)日本画ギャラリー

 

雪国館 日本画ギャラリー

ギャラリーの入口には、牧(まき)進(すすむ)の《雪國》があります。物語の幕開けにふさわしい、深々とした趣のある作品です。

一歩進むと、高山(たかやま)辰雄(たつお)の《雪國の月》。そしてギャラリー内を左回りに進むと、中路(なかじ)融人(ゆうじん)の《夜光虫》、由里本(ゆりもと)出(いずる)の《氷柱(つらら)》、岩澤(いわさわ)重夫(しげお)の《秋韻(しゅういん)》……と、『雪国』の世界が日本画によって連なっていきます。

物語を日本画で辿ることのできるギャラリー。それは、とても珍しい存在だと言われています。

しかも展示されているのは13名の画家による作品(牧進だけは2点あるのです)。全体としての統一感がありながらも、作家ごとの違いがスパイスのように香り、鑑賞する楽しさを深めてくれます。

物語の最後は、あの場面です。具体的に書くとネタバレになってしまうでしょうか。もっとも、世界的な名作ですから、みなさんご存じかもしれませんね。
ぜひ小説『雪国』を読まれてから鑑賞されることをおすすめします。作品の美しさや物語の余韻を、より深く味わっていただけると思います。

雪国 川端康成 直筆の掛け軸

ギャラリー内には、川端康成が揮毫した掛軸も展示されています。こちらは町指定文化財となっています。

また、川端康成が生前愛用していた品々も展示されています。大島紬や小千谷紬、薩摩上布などの着物をはじめ、湯呑茶碗や盃などが並び、旅行用の目覚まし時計はティファニー製とのことです。

一流品を好んだ川端らしい品々で、その人柄がしのばれます。

 

展示内容のご紹介(その2)駒子の部屋

 

駒子の部屋

小説『雪国』に登場する「神社」のモデルといわれる、旧湯沢村の村社・諏訪社が、雪国館から徒歩20分ほどの場所にあります。

諏訪社の脇には、「湯坂(ゆざか)」と呼ばれる小道が通っており、その途中には、駒子のモデルとされる芸者・松栄が暮らした置屋「豊田屋(とよだや)」がありました。

豊田屋は、二階を置屋に貸していた煙草屋兼駄菓子屋で、かたわら小百姓も営んでいました。その二階部分に松栄が住んでいたのです。『雪国』には、駒子が島村を招き入れる場面が描かれています。

雪国館には、この豊田屋の二階部分を移築・再現した「駒子の部屋」が展示されています。

川端康成が亡くなったのは昭和47年(1972年)。没後54年を迎えた現在、湯沢の風景は別世界のように変わりました。戦前の湯沢と今とで変わらないのは、山の形くらいだと言われるほどです。

大きな転機となったのは、昭和42年(1967年)に始まった土地区画整理事業です。約25年の歳月と45億円余りをかけて進められました。さらに昭和57年(1982年)の上越新幹線開通により、越後湯沢駅には新たに「西口」が設けられました。

昭和60年(1985年)頃からは、町内各地で高層リゾートマンションの建設ラッシュが始まります。また、消防法の規制によって木造三階建ての建物は建て替えを迫られ、川端が宿泊した高半も、昭和47年(1972年)6月に鉄筋コンクリート造へと改築されました。

諏訪社も、新幹線の高架建設によって社殿や参道が変わり、「鎮守の森」を形づくっていた社木の多くが伐採されました。

土地区画整理事業前の湯沢町

「湯沢がこれだけ変わってしまって、さみしいですか?」

そう尋ねると、湯沢村に生まれ育った方は、こんなふうに答えました。

「さみしい……てがは(というほどは)、どうかなあ。百姓するつもりでタッポ(田んぼ)や畑を持ってたがが無くなったがだすけ、それは辛かった。でも、それなりの金も入ってきたすけ、そのおかげで出来たこともあったと思ってるがさ。」

もし川端康成にも同じ問いを投げかけたなら、何と答えたでしょうか。

「うん」とだけ言って黙ったまま、静かにこちらを見つめるのではないか。私はそんな気がしています。

 

雪国館スタッフ 高橋

次回の雪国館通信は、川端康成没後55年と『雪国』90年をお届けする予定です。