来年の令和9年(2027年)は、川端康成の没後55年、小説『雪国』の刊行から90年にあたります。湯沢という土地が『雪国』の舞台としてどのように語られてきたのか。歴史民俗資料館「雪国館」を通して、その実像を辿ります。
川端康成の没後55年と『雪国』90年--2027年は記念の年
来年の令和9年(2027年)は、川端康成が亡くなってから55年、そして『雪国』が初めて単行本として刊行されて90年を迎える年です。
小説『雪国』は昭和12年(1937年)6月12日に創元社から刊行されました。その後も雑誌掲載や加筆・改稿を経て現在の形となり、今も多くの人に読まれています。
川端と『雪国』を語るうえで欠かせない場所が、作品の舞台となった湯沢です。川端は昭和9年(1934年)に初めて湯沢を訪れ、その後もたびたび「高半旅館(現在は雪国の宿 高半)」に滞在しながら執筆を続けました。
来年の節目をきっかけに、作品が生まれた土地を訪れ、『雪国』がどのように形づくられていったのかを、あらためて感じていただけたら嬉しく思います。
上越線全通がつないだ川端康成と湯沢
昭和6年(1931年)9月、清水トンネルの開通によって上越線が全通し、東京と越後湯沢は鉄道で結ばれました。それまで湯沢から東京へ出るには長野経由で約2日を要していましたが、上越線の全通により上野駅まで直通で約4時間40分となり、関東との往来は飛躍的に便利になりました。
その約3年後の昭和9年(1934年)6月、川端は初めて湯沢を訪れます。群馬県の大室温泉に滞在していた川端は、清水トンネルを越えて湯沢へ足を延ばしました。その後、何度も湯沢を訪れ、『雪国』の執筆を続けていきました。
『雪国』は湯沢なのか?
創元社版『雪国』(昭和23年)のあとがきで、『雪国』の場所やモデルを知りたいという問い合わせに対し、「もちろん私は地名を答えなかった。小説だけを見てほしかった。」と書いています。
ところが、その4年後に刊行された岩波書店版『雪国』(昭和27年)のあとがきでは、「『雪国』の場所は越後の湯沢温泉である。」と明記しています。
さらに、昭和34年の随筆『「雪国」の旅』では、「『雪国』は旅で生れた小説である」と書き始め、「場所は湯沢温泉だけにとどまっている。」としています。一方で、「『雪国』には湯沢という地名は出していない。どこかと問われても、私はなるべく答えたくなかった。」とも書いています。
地名を伏せるという考えは最後まで語られている一方で、あとがきや随筆では「湯沢」と書かれるようになりました。その変化を見ていると、「隠しきれない」と観念したのではないか、そんな印象も残ります。
変わりゆく布場スキー場
布場(ぬのば)スキー場は、大布場沢の扇状地に広がる緩やかな斜面を利用して生まれた場所です。もとは段々畑や桑畑のある農地で、夏には下宿(しもしゅく=地名)の人々の生活道路としても使われていました。やがて斜面が滑走に適した形に整えられ、スキーの場として利用されるようになっていきました。
『雪国』にも、こうした斜面の風景が描かれています。畑の間を滑る人々の姿は、整備されたスキー場というよりも、生活の延長にある雪国の風景を思わせます。
その変化は、斜面の広がりの推移としても見ることができます。大正期には黄色の線までがスキー場の範囲であったとされ、上越線の開通後には赤い線付近まで縮小し、さらに上越新幹線の開通を経て青い線付近まで狭まりました。
現在の布場は、かつての大きなスキー場ではなく、小さなスキーエリアとして利用されていますが、雪とともにある場所として、今も続いています。
雪国館スタッフ 高橋
次回の雪国館通信は、95歳の藁細工職人が伝える昔の暮らしをお届けする予定です。






