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다카하시 사다요시 작품전 ‘고택의 기억’

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2020 년, 우리의 생활은 크게 변했습니다. 설국관에서는 그동안 해외를 비롯해 많은 곳에서 찾아오시는 관람객을 맞이했지만 현재는 제한적인 형태로 개관중입니다. 또 다시 많은 관람객들의 웃는 얼굴을 마주할 수 있기를 진심으로 바라고 있습니다. 하지만 이러한 상황이 조속히 개선되기는 어려울 것 같습니다. 상황이 변했다면 설국관도 변해야합니다. 그런 뜻에서 이번 특별전시는 온라인상으로도 공개하기로 했습니다. 보시기 편하게 영어와 한국어도 준비했습니다. 번역해 주신 다쓰케 마유 님 (영어)와 이경미 님 (한국어)의 후의에 감사드립니다. 또한 이번 전시는 다카하시 사다요시 님, 나구모 가즈오 님, 스즈키 스미코 님께서 협조해 주셨습니다. 여러분께 진심으로 감사드립니다.

다카하시 사다요시 작품전 ‘고택의 기억’

2021 년도 전기 특별전
4 월 1 일 (목) ~9 월 28 일 (화)

유화 11 점 (100 호 1 점, 80 호 6 점, 60 호 2 점, 50 호 2 점)

우오누마 지역에서 고택이 사라져 가고 이제는 기억만이 아스라이 남아있습니다. 눈이 많이 내리는 이 고장에서 주택의 제설 문제는 대단히 중요합니다. 쾌적한 생활을 위해 고상식구조와 지붕에 쌓인 눈을 자동으로 낙하시켜 녹이는 등 채광을 활용한 건물은 이 지역에서 생활하는 사람들에게는 빼놓을 수 없는 것입니다.
옛 풍경에 대한 그리움은 누구나, 심지어 그 풍경을 본 적이 없는 젊은이들과 먼 땅의 사람들도 품을 수 있는 감정입니다. 기억 속의 풍경이 돼 버린 지금이지만 그림의 세계에서 소생되기를 바라며 이번 기획전을 개최하는 바입니다.

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그리운 가옥

유자와마치 다키노마타 고시고에택
제 50 회 (1995) 니가타 현전 F50

고시고에 타카라고 하는  80 대 여성이 살던 집 안을 들여다 보니 이로리에 는 장작을 태우는 스토브, 오른쪽 안쪽에는 수반 (부엌) 등 옛 생활 모습이 고스란이 남아 있었습니다. 이로리를 보면 어린 시절이 떠오릅니다. 예전에는 ‘와타시(걸치개)’라는 철제 도구를 이로리에 걸쳐 두고 주먹밥과 떡을 구워 먹었습니다. 주먹밥 속에는 잘게 썬 된장 장아찌가 들어가 있었는데 굉장히 맛있었던 기억이 납니다.

 

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어느 농가의 처마밑

유자와마치 고사카 나구모택
제 24 회 (1995) 니가타 예전 F80

예전에 마구간이었던 곳을 창고로 만들어 농사에 필요한 많은 물건들을 넣어두었습니다. 농가의 생활 모습을 엿볼 수 있습니다.

 

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그리운 가옥 (고택)

유자와마치 하라신덴 나구모택

제 21 회 (1988) 도카마치시전 장려상 F60

가옥의 벽은 허물어졌지만 배전반 등 옛 생활의 흔적을 엿볼 수 있었습니다. 당시의 건축 양식은 고택 구조로, 현대의 건물에서는 볼 수 없는 것입니다. 옛 건축 양식을 남겨두고 싶어서 그렸습니다.
(소장 : 유자와 마치 · 겐모쓰 젠지 씨)

 

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그리운 가옥 (고택)

미나미우오누마시 마이코 구마노택
제 24 회 (1991) 도카마치시전 장려상 F80

전후에 개척해 정착할 때 건축한 집인데 당시에는 폐가였습니다. 생활 상을 재현하고 싶어 대나무 짐짝, 세나코지(짐을 짊어질 때 사용하는 짚으로 만든 도구),짐대 등을 그림 속에 그려 넣었습니다.

 

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쪽문

유자와마치 다키노마타 나구모택
제 23 회 (1994) 니가타현전 F80

옛날에 가축으로 말을 키우던 집에서는 말이 드나들 때는 대문을 열고 일상 생활시에는 쪽문을 사용했습니다. 어느 집에나 다 있는 것이 아니고 당시에도 드문 구조였습니다. 쪽문은 쌀가마니를 메고 나올 수 없기 때문에 방범역활도 했다고 합니다.

 

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구 오쇼야(에도시대 촌장)관저

군마현 미나카미마치 히가시미네 카와이택
제 68 회 (2015) 시현회전 F100

근방에서는 고택을 찾기 어려워져 인근 군마현 미나카미마치를 방문해 유서 깊은 주택과 해후할 수 있었습니다. 이로리에 건 쇠주전자에 물을 끓여 차를 만드는 광경을 목도했을 때 내가 원하던 「아름다운 옛 가옥」이라고 느껴 그리게 됐습니다. 건물은 2014 년에 마을 지정 중요 문화재로 등록됐습니다.

 

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자취

미나미우오누마시 노다
제 34 회 (2005) 니가타 예전 F80

우연히 누가 살았는 지 알 수 없는 황폐한 고택을 발견했습니다. 허물어진 벽 안쪽의 고마이 (서까래 끝에 대는 나무)는  갈대로 엮은 것입니다. 관동지역의 고마이는 대나무와 나무를 사용했습니다.  아래로 드리워져 있는 것은  쥐참외입니다.

 

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어느 고찰 류곤지(楞厳寺)

미나미 우오누마시 센고쿠
제 22 회 (1989) 도카마치시전 시전상 F80

오래된 가옥을 두루 찾아 다니다 역사적인 건물이라는 것을 한눈에 알 수 있는 건물을 발견했습니다. 69 대째 주지스님이 돌아가신 후에  80 대 의 미망인이 살고 계셨습니다. 그림 왼쪽은 신사구조로 돼 있습니다. 신사와 불각이 한 건물에 같이 있는 것은 드문 것입니다. 현재는 문을 닫았습니다. 이듬해에 불전을 그렸습니다.

 

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수확

유자와마치 다키노마타 고시고에택
26th (1993) Tokamachi City Exhibition‘City Award’
제 26 회 (1993) 도카 마치시전 시전상 F80

초가지붕으로 된 고택 현관 옆에 풍구, 키, 되를 배치해 곡물을 수확하는 모습을 그렸습니다. 풍구는 탈곡한 벼에서 티를 제거하기 위해 사용한 전통적인 도구입니다. 장대에는 산달래, 씨 옥수수, 사냥때 사용하는 덫이  걸려 있었습니다.

 

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헛간

쓰난마치 아나야마 다카나미택
제 74 회 (2019) 니가타현전 F50

초등학교 고학년 시절을 보낸 나가노현 사카에마무라를 방문했을 때 사카에 무라 옆에 있는 쓰난마치에서 오래된 헛간을 발견했습니다. 문이 열려 있어 보관중인 농기구 등을 볼 수 있었는데 입구 옆 계단에 돌이 놓여져 있었습니다. 토담을 덮는 벽판의 일부는 떨어졌지만, 문과 벽판의 나뭇결에서 세월의 흐름을 느낍니다.

 

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그리운 가옥

미나미 우오누마시 우바시바신덴 하야시택
제 25 회 (1992) 도카마치시전 장려상 F60

집 주변이 논밭이고 가스통을 둔 곳이 부엌 뒤편입니다. 전통 구조의 벽판, 가스통을 눈바람으로부터 보호하는 칸막이목재에서 세월이 느껴집니다. 오른쪽 벽면에 키와 돗자리를 넣어 그렸습니다. 지붕에는 노송나무 널판에 돌이 올려져 있었습니다. 이상

2020年後期特別展「湯沢の今と48年前の頃」※終了しました

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【開催期間】令和2年9月17日(木)から令和3年3月30日(火)まで
      ※終了しました

【展示内容について】
 湯沢は変化の激しい土地である。昭和6(1931)年・上越線全通、昭和42(1967)年・上越線の複線化、昭和57(1982)年・上越新幹線開業、昭和60(1985)年・関越自動車道全通。大規模な工事の度、湯沢の風景は変わってきた。昭和6年生まれ、89才の田村正夫さんは「そらぁ変わったこっつぁ、何でも。変わらねぇもんの方がねぇろぉなぁ。」と湯沢弁で話した。
 楽町の写真店「写真のタカハシ」の先代、故・高橋藤雄さん(昭和7年生)が撮影した写真がある。昭和47(1972)年、大字湯沢地区の消火栓および消火水槽を1ヶ所につき1枚ずつ記録した、合計75枚。
 当時は実用の記録写真だったが、48年後の今、湯沢にとって貴重な資料である。48年前と同じ風景を探し当てることができないか、できたら面白いのでないかと考えた。しかし、写真を見始めるとすぐ、意外に難しいと分かった。推測しかできない場所と、全く分からない場所が半数ほどもあったのだ。
 そこで、正夫さんに、これらの写真を見てもらい相談すると「大体の場所は分かる」と言うので、同じ風景を探索してみようとなった。正夫さん宅の近くに住む田村亨一さん(昭和17年生、78才)にも協力を仰いだ。
 撮影は令和2(2020)年、6月から8月にかけた7日間で行った。この記録が、また先の世代にとって貴重な資料となることを願う。

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8月は子ども無料 ※終了しました

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◆8月1日(土)から31日(月)までの1ヶ月間、小中学生の入館料、
 通常250円のところ無料になります。ぜひ遊びに来てください。
 ※終了しました

◆クイズラリーの新作も用意しています。
 入館券1枚につき2名まで無料でできます(入館券が無い場合、1名100円)。

◆8月は水曜日(5日、12日、19日、26日)も開館します。

 

<お願い>
※ 入館時にはマスク着用とアルコールスプレーの使用をお願いします。
※ 体調不良の方の入館は控えてください。
※ 念のため、ご連絡先を皆さまからいただいております。ご協力ください。
 (館内で体調不良者があった場合、ご連絡する可能性があります。)
※ 館内が混雑する可能性がある時には、入館をお待ちいただくことがあります。
※ 展示品には触らないよう、ご協力をお願いします。
※ 団体入館(15名以上)の場合、ご予約をお願いします。

<クイズラリーについて>
昨年まで、バインダーに挟んだクイズの用紙(A4サイズ)と鉛筆を渡して、5~6問の答えを書き終えてから、職員が丸付けをして用紙を返していました。景品は、くじびきにしていました。
今年より、厚紙で印刷したクイズの用紙(A5サイズ)は、バインダーが無くても書けるようにしました。鉛筆は使い捨てタイプにしました。答えは、キーワードを言うようにして、丸付けを無くしました。景品は参加賞につき、全員同じ品物にしました。

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2020年前期特別展「『雪国』と湯沢」※終了しました。

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【開催期間】令和2年2月27日(木)から9月15日(火)まで ※終了しました。

<特別展 開催について>
八千草 薫さんが亡くなった、とニュースを聞いたのは昨年(2019年)10月28日(死亡は24日)。昭和32年(1957年)公開の映画『雪国』で葉子を演じた八千草さんは、88才になっていました。
新聞社等から「誰か当時(昭和30年頃)の八千草さんに会った人が湯沢にいないか」と問い合わせを受け、探しましたが、なかなか見つからないのです。湯沢の昔を実体験として語ることのできる人が、確実に少なくなっていることに焦りを覚えました。
ようやく八千草さんと同じ生まれ年の田村正夫さんが「八千草さんの写真を持っている」と分かり、古いアルバムを見せてくれました。小さな写真ですが、そこに湯沢と田村さんの歴史を感じました。みなさまにもぜひご覧いただけたらと、今回の特別展を開催しました。 (展示担当スタッフ)

※コロナウィルスの感染影響により、外出を控えている方がたくさんいらっしゃると思います。いつもはご来館の上、ゆっくりご覧いただきたい展示でございますが、今回は、ご自宅でもご覧いただけたらと思いまして、ホームページで展示内容の一部を公開いたします。なお、写真については掲載しませんので、ご了承願います。

 

川端康成(1899~1972)は、『雪国』は湯沢か、ということについて、
『雪国』のあとがきで、下記のように書いています。一部、抜粋しました。

「雪国」の場所やモデルを芝居の参考に見ておきたいからという花柳氏(※)の手紙にも、もちろん私は地名を答えなかった。小説だけを見てほしかった。
・・・創元社版『雪国』(昭和23年発行)あとがき
・・・※花柳章太郎(1894~1965)女形役者。「雪国」を上演

「雪国」の場所は越後の湯沢温泉である。私は小説にあまり地名を用いない流儀だった。地名は作者ならびに読者の自由をしばるように思えるからである。
・・・岩波書店版『雪国』(昭和27年発行)あとがき

 

映画『雪国』について

1957年(昭和32年)に、配給は東宝で封切られた。出演は、島村役の池辺良、駒子役の岸恵子、葉子役の八千草薫など。湯沢でロケが行われた。

 

『雪国』のロケに出会った町民たち

湯沢生まれ湯沢育ちの湯沢住民、田村正夫さんは、昭和6年(1931年)生まれ。田村家は昭和29年(1954年)に幅12メートルの西山道ができると、林を売って「アルペン食堂」を建て、翌年のシーズンから営業した。当初は「山彦食堂」にしようと家族で決まりかけたが、最終的に正夫さんの案で決まった。当時、カタカナの店の名前は目新しかった。従業員は家族を含めて5人であった。女性は通いで、男性は泊まり込んで働いた。父と弟は本宅にいた。

食堂を営業し始めてまもなくの頃、雪国のロケがあったと思う。ロケの下見で、池辺良や岸恵子が(自宅近くの)楽町(らくちょう)辺りを歩いているのを見た。くっついてなんて行かなかったすけ、見かけただけだった。岸が家に寄ってお茶を飲んだりして休んでいったと、後で姉から聞いた。
食堂の前で、池辺と八千草薫が通ったのを見かけて、カメラを持って行った。何も言わないで撮った。撮られてたって普通にしていたよ。八千草は体格がそんなに大きくなかったけど顔立ちが良かった。さすが女優になる人と思った。
(田村正夫さん)

布場スキー場の食堂「新雪」で、7人が2列に並んで撮影された写真がある。前列中央に八千草薫。箸とお椀を持って「いただきます」という様子で笑顔。和服姿である。田村さんに、写真について聞くと「両脇は関係者じゃないかな。後列の右から2番目が店主の大平さんで、横が奥さん」とのことであった。

昭和32年(1957)に『雪国』撮影のためロケの調査があり、高橋藤雄さん(昭和7年・1932年生まれ)が下見の写真を撮った。このとき、写真の専門家が来て仲良くなり、その縁で、本番の撮影時にはスチールカメラマンの脇で撮ることができた。
高橋さんは、楽町の写真店(写真のタカハシ)の二代目で、東京写真大学を昭和28年(1953)に卒業。昭和25年(1950)頃からスキー場の写真を撮り始めた。ゲレンデで客を撮り百円から百五十円で販売。夜に現像して郵送した。
・・・「湯沢町史・双書8 湯沢町の民俗2 人の越後』より抜粋

「島村ロッヂ」の島村武夫さん(82)は『雪国』ロケのとき高校3年生で、全国インターハイ・国体・全日本の大きな大会に出場した年だった。家は湯元で旅館(湯沢ホテル)をしていたが、昭和17年ころ廃業して、戦後は布場で島村スキー学校を経営。父親の勝彦さんは、湯沢スキーの先達の一人である。武夫さんは父親から言われ、岸恵子らにスキーを教えた。「教えるったって道具が悪すぎてね。スキーを履かせるだけでも一苦労で、とても斜面をすべらせるまではいかなかった。そりゃあ、きれいだったよ。これが人間かなと思うくらいだったね」と話した。

 

布場スキー場について

布場スキー場は、大布場沢の扇状地。大正時代(1912~25)から利用されてきた。傾斜面の山の方に向かう作業道(幅1.8メートル)が何本もあり、夏には下宿(しもしゅく)の人々が利用した。大豆や大根などの野菜を作付けした段々畑や桑畑があり、滑るところの段を削ってスキー場らしくした。昭和6年(1931)に上越線の清水トンネルが開通してから冬期間は売店(食堂)が作られるようになった。 昭和57年(1982)上越新幹線が売店の位置を通ることになり、少し山側に移動して新築もしくは廃業した。

 

下宿(しもしゅく)について

三国街道の湯沢宿は、三国峠寄りが「上宿(かみしゅく)」、塩沢寄りが「下宿(しもしゅく)」である。高半旅館がある「湯元」は小高い丘の上にあり、昭和初期、民家は数件しか無かった。湯元から近い下宿で、雪国の撮影は多く行われた。下宿から湯元までの坂道を「湯道(ゆみち)」といい、下からあがるときは「湯坂(ゆざか)」と言った。湯元の温泉に浸かるときや畑仕事で布場へ行くときなど利用した。「そこいらは細い道しかなくって、人ひとり鍬かついで荷物を背負って通れるくらいだった。昔は山道みたいだったけど、今は道が広くなった。いちばん変わったがは、新幹線ができてから。全然違う風景になった」と田村さんは話す。 ちなみに地元の人は「湯沢」を「よざわ」と発音し、「よ」にアクセントを置く。

たいていの家の屋根は細かい板で葺(ふ)いて、上に石が置き並べてある。それらの円い石は日の当たる半面だけ雪の中に黒い肌を見せているが、その色は湿ったというよりも永の風雪にさらされた黒ずみのようである。そして家々はまたその石の感じに似た姿で、低い屋並みが北国らしくじっと地に伏したようであった。
・・・『雪国』(新潮文庫)より抜粋

大名が通った頃からであろうと思われる、古風な作りの家が多い。廂(ひさし)が深い。二階の窓障子は高さ一尺ぐらいしかなくて細長い。軒端(のきば)に萱(かや)の簾(すだれ)を垂れている。
・・・『雪国』(新潮文庫)より抜粋

 

映画での火事のシーンについて

火事の場面で燃やす家を河原の方に作った。昔、その辺には民家が無かった。消防団第1分団第3部というのが家の方で、部長から「何人か出てほしい」と言われて行った。下っ端(したっぱ)だんが「ここで見てろ」と言われた場所に居た。河原の方じゃなくて、湯元(高半辺り)だった。待機してろということだったんだろう。
(田村正夫さん)

河村勝さん(昭和13年・1938年生まれ)は、高校一年生のとき、エキストラのアルバイトに応募した。火事の撮影には、できるだけ当時の服装をして出てくるようにいわれたので、爺チャンからもらった綿入半纏(はんてん)を着て、顔も手拭(てぬぐい)でホウコッカブリをして出演した。火事のセットは一回限りであった。また、当時は自然の雪が降るのを待って撮影したので、ロケも長期になった。
・・・「湯沢町史・双書8 湯沢町の民俗2 人の越後』より抜粋

『もっと知りたい三国街道みつまた』販売中

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「旧脇本陣跡 池田家」当主、池田誠司さんが自費出版された冊子を販売しております。池田家は湯沢町に寄贈されており、町の貴重な文化施設として伝承することが必要であると当館も考えております。

【タイトル】もっと知りたい三国街道みつまた(113ページ)
【内容】約5年前に自費出版した「ちょっぴり知りたい三国街道みつまた(249ページ)の続編
【著者・発行者】池田誠司(池田家18代当主、昭和19年4月生、75才)
【発行日】2020年(令和2年)2月22日
【頒価】880円(税込)

館内で販売しておりますが、遠方の方へのサービスとして通信販売を行います。
1冊1,000円(消費税、手数料、送料込み)になります。
ご注文は、yukigunikan@e-yuzawa.gr.jp までメールでお願いします。
タイトル「冊子購入」として、本文に注文冊数、お名前、ご住所、お電話番号をご明記ください。お支払い手続きについて、お返事を差し上げます。
※メールご送信より1週間経ってもお返事が届かない場合、お電話くださいませ。

表紙

目 次

はじめに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・一〇

一、三国街道について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・一二

【1】三国(越後・上野・信濃)の名前の由来

1、街道や宿場は何の為に出来たか

(1)街道   (2)宿場

2、三俣村はいつ頃から存在していたか

(1)三国街道「三俣宿」はいつ頃出来たか

(2)なぜこんなに早く出来たのか

3、江戸から越後に行く為の三街道   4、三国街道の年間利用数

5、参勤交代

(1)長岡藩の参勤交代  (2)新発田藩・村松藩

6、運搬(人の移動、品物の運搬)

二、脇本陣・池田家・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・二八

【1】先祖  岡山城主池田輝政公の子孫

1、池田輝政と城   2、池田輝政と豊臣秀吉の関係

3、池田輝政と徳川家康の関係

【2】家紋

【3】建物

1、いつ頃建てられたか   2、大きさ・屋根構造・建物「石場建」

3、材料   4、二つある玄関   5、広間   6、上段の間

7、中の間   8、六尺の間   9、茶の間   10、縁側・帳場

11、黒い天井

【4】県文化財(史跡)指定

【5】三の災難から逃れた「脇本陣池田家」は貴重な歴史的建造物

1、三俣大火

2、戊辰戦争三国峠の戦い

(1)戊辰戦争はなぜ始まったか

(2)三国峠の戦い

*浅貝宿   *二居宿   *三俣宿(一・二説)

3、三俣大雪崩

(1)大雪崩の発生   (2)大雪崩から逃れられた脇本陣池田家

(3)雪災碑

【6】町に寄贈

【7】宿札と宿泊した知名人等

1、山縣有朋   2、森鴎外(本名=森林太郎)   3、筧新太郎

4、徳川家達   5、群馬県議・新潟県議等

6、その他(安政五年 池田家古文書)

三、苗場山・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・六九

【1】苗場山の開闢と池田家

【2】苗場山の神様と伊米神社

四、三俣祭り ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・七四

五、伊米神社境内の見所 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・七八

【1】鈴木牧之の碑

【2】東郷平八郎の碑

【3】光苔(ひかりごけ)

【4】梅花藻(ばいかも)

六、道路元票・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・八二

七、庚申さま・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・八三

【1】庚申さまが始まった時期

【2】庚申さまとはどんな神様か

【3】庚申はなぜ六〇年に回って来るのか

【4】なぜ赤いチャンチャンコなのか

【5】庚申塔建立

【6】庚申塔の本尊(青面金剛明王・猿田彦神)の建立

【7】おかねさま

【8】庚申溝で使用された八木沢膳(有馬屋木工所作成)

八、三俣郵便局・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・八九

【1】運送手段

【2】郵便脚夫にピストル携帯

【3】郵便船のはじまり

【4】郵便の父、前島密

九、 生き仏・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・九四

十、 鶴女の碑・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・九五

十一、稲荷様・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・九六

十二、荒戸城・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・九七

【1】荒戸城の場所

【2】跡目相続

【3】御館の乱

【4】荒戸城の活用

十三、八木沢口留番所・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・一〇一

【1】八木沢口留番所の場所

【2】八木沢口留番所の重要性

【3】八木沢口留番所の期間

【4】八木沢口留番所破り

【5】災害から免れた八木沢口留番所

十四、三俣の金山・銅山・・・・・・・・・・・・・・・・・・・一〇五

【1】鉱山を始めるきっかけ

【2】鉱石の発見による関祖屋の転職

【3】手に入れた鉱石は金鉱石であった

1、金山採掘の場所    2、金山から銅山への採掘の変更

あとがき・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・一一一

 

はじめに

 私が三俣宿の脇本陣・池田家一八代を継いだのは、厳格だった父、一興(かずおき)が亡くなった後でした。社会人となって東京と県内数箇所で仕事をした後、三俣へ帰りました。その決心をしたのが新緑の季節でした。柳の新芽が清津川に映え、色鮮やかな光景を見て、その美しさに感動したことが、故郷へ帰る気持ちを後押ししてくれました。

 一八代として見学者などに案内しているうちに、もっと池田家と三俣について知ってもらいたくなり、自分がもっと詳しく知らなければと思いました。

 そのため、長い年月をかけて調べ、平成二七(二〇一五)年、『新潟県・湯沢町 ちょっぴり知りたい三国街道みつまた』を自費出版しました。その時は、ようやく成し遂げたという思いがありましたが、しばらくすると、あんなことも書きたかった、こんなことも書きたかったということが、どんどん出てきました。それで、少しずつ書きためたものを「続編」として今回、まとめることにしました。

 『ちょっぴり~』は、なるべく多くのことを紹介できるように書きました。一方、本書は、『ちょっぴり~』より深く、こだわって書きました。もっと池田家と三俣のことを知ってもらいたいからです。本書を読んでいただき、面白かった、楽しかったと言ってもらえたら嬉しい限りです。

令和二年二月二二日                       池田 誠司